訃報 実の父が亡くなりました|闘病生活最初の病気から約30年間
- Rieeeee
- 2022年3月9日
- 読了時間: 6分
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みなさん、こんにちは。
実は、私の実の父が先週(2022年2月28日)に亡くなりました。
死因は「再発性食道がん」ということでした。
闘病を頑張っていた父の記録を残すために、この記事を書きたいと思います。
父のプロフィール
生年月日:昭和26(1956)年1月4日
兄弟:6人兄弟の第3子長男(第1子長女、第2子次女は長男(父)が生まれる前に死去)
結婚:28歳(母が24歳)の時
子ども:1979年4月5日長女、1980年11月18日長男、1983年2月16日次女誕生
仕事:学生を卒業後しばらくは遊びに没頭、その後神奈川県の川崎にて焼き鳥屋で仕事をするが地元の宮城県に戻り、左官業の職を学び独立。「梅津工業」としてセキスイハイムの協力会社として仕事を請け負う。職人としての腕はかなり素晴らしかったようで、独自のやり方でたくさんの現場をこなす。主に玄関ステップのタイル貼りやモルタル仕上げ、壁塗りなどのほかに宅地内の整地や砂利敷きなども行っていた。
趣味:釣り、歌、酒、料理
病気について
1991年:
胃にポリープがあり、リンパ腫の疑いもあったため胃袋全摘手術を受ける。
2011年:
東日本大震災のあった年に新たに「食道がん」が見つかり、「宮城県立がんセンター」受診
その後、食道がん摘出手術、放射線治療、抗がん剤治療を開始。
一次寛解の後、半年に一度の経過観察を受ける。
2018年~:
食道がんが再発。再び放射線と抗がん剤の治療を開始。
退院後、毎月1回の経過観察。
その後の何回目かの経過観察のペット検査にて肺への転移などが見つかる。
肺腺ガンを担当医に発見してもらい、肺の1/3を切る手術を行う。
さらに経過観察ののち、食道がん(食道の外側)での再発が見つかるが心臓と動・静脈血管の間の際どい所に腫瘍ができており、リスクを伴う為手術不可能と診断される。
放射線治療についても限界を超えており、治療不可能で最後の望みをかけて最後の抗がん剤投与治療を行う。
治療の効果がなく、すべてのがんに対する治療を終了する。
かかりつけ医を「宮城県立がんセンター」より地元の「医療法人伸裕会渡辺病院」へ変更して予後を過ごす。
治療終了後の生活について
食道外側の腫瘍が大きくなってきていて食道を圧迫していた為か、食べ物を口から摂取してものどの辺り(?)で痞えてその後吐き戻したり、消化器官から粘液のようなものがこみあげてくるようで、見ていてとても辛そうでした。
そのような中でも美味しいものを食べることが大好きだった父は、本当に好きなものだけを少しずつ口にして飲み込んでは吐き戻すことを繰り返していました。
最終的には、ほとんど飲み込むことができず栄養が摂取できない状態になり体力・体重が落ち込み、昨年末に入院した時には「もしかしたら年を越すことができないのではないだろうか」という不安がよぎっていました。
(その頃から私は、子どもたちには「じいじがいつどうなるかわからない状態だから、覚悟だけはしておこうね」と伝えていました。)
病院の主治医と相談した結果「栄養を点滴で取りながら自宅で好きなことを過ごすのはどうか?」という提案をされたようで、父と母はその方法を試して体力を維持することを決意して自宅に帰ってきました。
それからの父は自分で何かを悟ったかのように、入院中にハマった「YouTube」の動画で自分の趣味である「釣り動画」なども見ながら、得意の「料理」についてレシピや作り方などを研究し始めました。
今まで孫たちが見ていたYouTubeには全く興味を示していなかったのに、急に…。
まるで何かにとり憑かれているようでした。
その研究したレシピなどは私が学生時代に書き余した大学ノートに、一生懸命に書き写していました。
父は字などを書くのがあまり得意ではなかったのに…
今思えば何かしていないと病気のことでモヤモヤしてしまうので、それをかき消すようにしていたのかもしれません。
本人は一切口にしませんでしたが、身体の内部に痛みがあったのかもしれません。
それを表に出さないために、こだわりの料理を作っては友人や家族、知り合いを呼んで食べさせてくれました。
日に日に体力が無くなっていき最後の頃には台所に立つ気力もなくなってきていたようで、母に「俺はもうやることが無くなった。決着をつけなければならない…」などと話していたそうです。
そして、令和4(2022)年2月25日(金)に母の受診の日に一緒に父も受診。
自宅に戻ろうとするも、体力がなく「動けない」ということでそのまま入院。
主治医に「そのまま入院して最後まで病院で過ごすか、それとも自宅に帰って最後まで過ごすかを月曜日までに決めてください」と言われた母は、二人暮らしの為他にもやらなければならないこともあったために自宅で最後まで看るという考えで病院へ。
しかし、体力・気力ともに戻らずその月曜日の令和4年(2022)年2月28日、12時47分に亡くなってしまいました。
新型コロナが無ければ…
現在、未だに新型コロナウイルスの感染者が増え続けている中で、私たちはいろいろな場面で制約や我慢を強いられています。
飲食店などでの感染対策はもちろん、病院や学校などの公共機関、葬儀場もそれぞれ感染対策を必死に行っています。
そのおかげで感染者を抑えられているメリットもありますが、今回の父の件ではデメリットもたくさんあるんだと感じました。
まず病院では、一度入院して退院するまでは基本的に家族でも限られた人(付き添いなど)以外は面会できないことです。
父は人好きで社交的な人だったので、もしもコロナウイルスの影響がなくて病院にお見舞いや面会などに来てくれる人がいたならば、もう少し気力が戻って少し長く生き続けることができたかもしれません。
母は付き添いで常に一緒だったので、母以外の誰とも最後に面会することができなかったということが、少しは影響していたのではないだろうかと考えています。
そして、葬儀についても新型コロナウイルスの蔓延防止の為に親族など近親者以外の一般の弔問の受付・ご焼香が会場の外の入り口のテントで行われ、遠くから来てくださった方には特に申し訳ない気持ちでいっぱいになりました。
新型コロナがなければ、たくさんの人に父の顔を見てもらうことができたり思い出話なども話すことができたのではないかと思います。
このようなことからも、新型コロナウイルスの蔓延が早く収束することを祈るばかりです。
まとめと感謝の言葉
今回は、父が亡くなったことをきっかけにこれまでの父がどのように過ごしてきたかなどの記録として残すために、この記事を書かせていただきました。
現在も世の中にはたくさんの病気と闘っていらっしゃる方がいらっしゃると思いますが、この記事をよんでいろいろと考えてみたりする機会になればいいなと思っております。
父が居なくなって、現在は実家に母一人の状態となってしまいましたがそれほど遠くない場所にいるので、落ち込んだり自暴自棄になったりしないようにしっかり支えていきたいと思います。
最後に、父が生前関わっていただいた皆様には本当に感謝申し上げます。
これからはちょっと遠い場所から見守ってもらうことになりますが、その期待に外れないように私たち自身もしっかり生きていきたいと思います。
長文になってしまいましたが、最後まで読んでいただきありがとうございました。
お知らせ(CM)
母がお手伝いをしている事務所から『日本クラウン』の歌手としてデビューされました立花しげるさんです。(父も生前、自宅の庭の紅木蓮の花が題材として使われたことをとても喜んでいました。)
公式YouTubeサイトにて動画配信されておりますので、皆さんよろしくお願いいたします。
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